・学校のできる前、家の道路を崖側に歩いていき。崖を10mほど下ると、田んぼでした。田んぼのあぜ道を歩き、用水色にオタマジャクシがいました。対面にも上り崖があり、そちらは未踏の地でした。来た道の崖と対面の崖との間の広がった田んぼの中心には、東小学校の第一グランドと第2のグランドの堺の流れる川が続いていました。(東小学校は、その後川を埋め立て、直線の徒競走の5レーンくらいっだたかな、に変わりました。(昭和49) 大昔は高津新田といって、高津に住んでる人が田んぼをしてたと聞いてます。
(昭和52年8月に東小学校から、机をひとり1台手に持ち、新築の2小へいどうしました。蛇口の水はまだ飲めず(水土管新管のためのにおい)水筒持参でした。
二小ができる前には、だんだん田んぼが埋め立てられ、埋め立てるための土が高く積み上げられ、水田の最後はザリガニがよくとれる沼地になっていき、やがて土に変わっていきました。学区は住宅街でした
八千代台東第二小学校は2013年に惜しまれつつ閉校いたしました。