・寒風山と日本海と船川港が見える丘の上の学校で、私は橋本憲隆で1947年昭和22年産まれで、所謂ベビーブーム世代でその為か同級生は多くて確か船川中学校では50数人学級が8クラスも有って、高校受験、大学受験、卒業後の会社入社試験は熾烈でした。私は幸いにも船中時代に良い先生に恵まれ、国語は千釜理香子先生、数学は明石先生に恵まれ、目出度く秋田高校へ進学出来ました。高校受験は船中からはたった3人しか秋田高校へは入れませんでしたが、
なんとか某大学を卒業出来て石川島播磨重工業と言う大企業の造船設計技師として入社出来ましたが、入社して数年後には造船不況に見舞われ、已む無く、横浜造船所から東京豊洲の総合設計事務所へ転勤となり、更に会社方針で石川島播磨重工業が原子力再処理分野へ進出することから更に茨城県東海村原子力研究所の一組織の動力炉核燃料開発事業団へ出向を命じられて、其処に赴任したら、世界の再処理技術を学んで来いとなり西ドイツのカールスルーエに在るドイツの原子力研究所へ改めて赴任して約2年程滞在して当時の原子力分野の最先端技術で有った硼珪酸ガラス固化技術の日本への導入に尽力しました、好事魔多しと諺の通リ、55歳頃には石川島播磨重工業の子会社の石川島検査計測株式会社の営業部門の建て直しに営業部長として派遣され、同社の年間営業受注額を当時内販所謂石川島播磨重工業から発注分は約15億円で所謂外販の石川島播磨重工業から受注以外は殆どゼロに近かったのをたった一年で外販受注を50億円へ伸ばせました!当時は自動車業界が伸び始めていた時期だっので、其処に眼を付けて自動車業界からの外販受注.伸ばしました。米澤の偉人の上杉鷹山公の名言の"為せば成る為さねばならぬ何事も"を肝に命じて政治経済社会動向をデータ分析並びに日本経済新聞はじめとしたマスコミ報道やBSテレビ東京等の放映から得られる現実社会の潮流を読み解きまして、作戦を建て、直ぐに実行に移して、実行の結果を数量的に分析して次の作戦へフィードバックしました。肝心なのは
気概及び実行力並びに其れを支える定量的な数値分析で感では無くて?勿論、人脈は大切ですね!
船川中学校は1992年に惜しまれつつ閉校いたしました。